2006年10月13日
◆神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(四)
◆神在月と神在祭、古代出雲王国の謎(四)
◆◇◆神在月と神在祭、出雲大社の神在祭、出雲に神々が集う
神在月の期間に出雲地方の多くの神社で行われるさまざまな神事を神在祭(俗に「お忌みさん」)と呼ぶ。神在祭の中でも旧暦の十月十日から始まる出雲大社の神迎祭(※注1)(※注2)、十一月二十日から始まる佐太神社の神迎祭、十一月二十六日の万九千神社の神等去出祭(からさでさい)がよく知られている。このほかにも、旧暦の十月一日に朝山神社で神迎祭が行われるほか、神魂神社、日御御碕神社、多賀神社などでも神在祭に関わる神事が行われている(※注3)。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※1)旧暦十月、出雲では日本各地から集まる神さまをお迎えする「神在祭」が行われる。出雲大社では、旧暦十月十日の夜、海の彼方から依り来る諸神たちを神籬に迎えて本社に帰参し、本殿両側の十九社に鎮める「神迎祭」から始まる。神々はこの期間そこに滞在され、会議は境外の海岸に近い上ノ宮で行うそうだ。今ではこの期間でも奏楽をするが、本来は静謐を第一とし、さまざまな社中法度があった。ことに最後の旧暦十七日夜は「神等去出(からさらで)」といい、社中のみならず周辺の住民も忌み慎み、夜に外便所へいけばカラサラデさんに尻を撫でられるなどといわれている。
この「お忌みさん」の信仰は出雲大社の周辺のみならず出雲のほぼ一円にあり、関係する神社も佐太神社・神魂神社・朝山神社・万九千社など数社に及び、神々はこのひと月をかけてこれらの神社を巡回されるという伝承も成立した(神々来臨の目的は各社各様です)。神在祭が終わって十一月二十三日の夜からは、出雲大社では最大の古伝新嘗祭が行われる。
(※注2)出雲大社が縁結びの神といわれるようになったのは、少なくとも近世中葉にはそういわれていたようである(井原西鶴の『世間胸算用』に「出雲は仲人の神」という言葉が見える)。しかし古くはむしろ福の神であって、狂言の『節分』や『福の神』にはその思想が窺える。
出雲へ旧暦十月に諸国の諸神が参集するということは、すでに平安末期の藤原清輔の歌学書『奥儀抄』に「十月天下のもろもろの神、出雲国にゆきてこと国に神なき故にかみなし月といふをあやまれり」とあり、また鎌倉時代末期の『徒然草』に「十月を神無月と云て、神事に憚るべきよしは、記したる物なし。本文も見えず。但、当月、諸社の祭なき故に、この名あるか。この月、万の神達太神宮へ集り給ふなど云説あれども、その本説なし」とある。それが何処まで遡れる伝承かは明らかではない。
(※注3)出雲国は他の諸国と比べて特別な宗教性があったようだ。他の風土記に神社の記事が極めて少ないのに対し、『出雲国風土記』(天平五年・七三三年)では、各郡各郷ごとに特別に詳記され、またその数も、中央の神祇官に登録されたものが百八十四社、それ以外のものが二百十五社、合計三百九十九社(神庭荒神谷遺跡で出土した銅剣数、三百五十八本と関係がありそうだ)もある。
平安時代の『延喜式』(延喜五年~延長五年)になると、この官登録の百八十四社に三社を加えた百八十七社(座)が式内社となっている。その数は隣の因幡国の五十座、伯耆国の六座、石見国の三十四座に比べて、ケタ外れに多いのだ。畿内の山城国百二十二座、大和国二百八十六座、伊勢国二百五十二座など、一級クラスと肩を並べるものである。
山城国や大和国に官社が多いのは、政治の中心がそこにあったからで、その地の宗教性とは無関係であるし、伊勢国は神宮との関係が深いからだと考えられる。しかし、出雲に官社の数がこれほど多いのは、朝廷と特別な親近関係があったというよりは、出雲独自の宗教的性格の故であると考えられる。
スサノヲ(スサノオ)
●和歌の朗読と演奏で楽しむ神々の世界
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この記事へのコメント
井沢蟠竜の「広益俗説弁」巻2の7に「神無月・神在月」の説がでています。
彼はあるとき出雲の人に出会ったので、これについて尋ねてみたところ、その
人は「他国の人はいつもそんなことを言うけれども、出雲では神在月などとい
うことは言わない。神無月は出雲でも神無月だ」と答えたそうです。
「広益俗説弁」は正徳4年(1714年)頃の出版です。
今は出雲でも「神在月」と言い、神迎え・神送りの神事を「神在祭」と称してい
るようですが、昔はそんなことは言わなかったのでしょう。尋ねられた出雲の
人もあえて否定する意味はないですしね。
たぶん明治になり、諸国の往来が自由になったら、参詣にやってくる他郷の
人が口をそろえて「神在月」と言うので、出雲でも「迎合した」と言うとちょっと
アレですが、「夢」を壊さないように「神在」にしたのではないかと思うのです
が、どうでしょう。
ちなみに井沢蟠竜自身は「神無月」の解釈として、陰暦10月は陰のきわまる
時期なので「陽(かみ)」の要素がないという意味だとする貝原益軒の説を採
用しています。これも少し怪しいですが。
私はむしろこの季節に行われる神嘗(かんなめ)祭から、始めは「かんなめ
月」と呼ばれ、次第に「め」が抜け落ちて字を当て直した、という説がいいように思います。
彼はあるとき出雲の人に出会ったので、これについて尋ねてみたところ、その
人は「他国の人はいつもそんなことを言うけれども、出雲では神在月などとい
うことは言わない。神無月は出雲でも神無月だ」と答えたそうです。
「広益俗説弁」は正徳4年(1714年)頃の出版です。
今は出雲でも「神在月」と言い、神迎え・神送りの神事を「神在祭」と称してい
るようですが、昔はそんなことは言わなかったのでしょう。尋ねられた出雲の
人もあえて否定する意味はないですしね。
たぶん明治になり、諸国の往来が自由になったら、参詣にやってくる他郷の
人が口をそろえて「神在月」と言うので、出雲でも「迎合した」と言うとちょっと
アレですが、「夢」を壊さないように「神在」にしたのではないかと思うのです
が、どうでしょう。
ちなみに井沢蟠竜自身は「神無月」の解釈として、陰暦10月は陰のきわまる
時期なので「陽(かみ)」の要素がないという意味だとする貝原益軒の説を採
用しています。これも少し怪しいですが。
私はむしろこの季節に行われる神嘗(かんなめ)祭から、始めは「かんなめ
月」と呼ばれ、次第に「め」が抜け落ちて字を当て直した、という説がいいように思います。
Posted by めかぶ at 2007年07月17日 11:58