◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(六)

スサノヲ(スサノオ)

2006年09月01日 00:00




◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(六)

 ※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。内容を要約抜粋し紹介する(新羅明神、白髭明神、比良明神、都怒我阿羅斯等、天日槍、伊奢沙別命、素盞嗚尊、白日神、新羅神など)。

◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、越国(越前)と若狭湾-1

 若狭地方は日本海沿岸の古代日本の先進的地域であり、若狭(ワカサ)の語源は、朝鮮語のワカソ(往き来)であるともいわれている。また若狭地方も、新羅・加耶系氏族に関わる伝承や伝説が多く存在し、神社の祭祀氏族としては、秦氏が圧倒的に多いのだ。

 しかも新羅信仰を今に伝えている神社がいくつか残っている。それが、敦賀市の「白城(しらぎ)神社」(白木)、「信露貴彦(しろきひこ)神社」(沓見)、小浜市の「白石(しらいし)神社」(下根来)などである。さらに、応神天皇や継体天皇との関連がある「気比(けひ)神社」「角鹿(つぬが)神社」「須可麻(すがま)神社」なども新羅・加羅系の氏族が祖神を祀ったといわれている。

 若狭地方の敦賀の名称は渡来人・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の渡来伝承によるものとされ、『今庄の歴史探訪』によると「上古敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・任那人等の多く此地に渡来し、敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅神社として祭祀せるもの多く、信露貴神社亦共一に属す」とあります。また、敦賀付近には新羅(しらぎ)の宛字と思われる土地名や神社名が多く、例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦神社・白城神社・白鬚神社などがある。

 古来敦賀は北陸道や西近江路の入口に位置し、『延喜式』には「越前国…海路。漕二敦賀津一。…至二大津一…。」とあり、越前地方は敦賀を介し近江地方と密接な繋がりを持ち、日本海の産物を琵琶湖経由で、畿内の京都や奈良などの都に送っていたことがわかる。

 この敦賀には気比神社があり、都怒我阿羅斯等・天日槍に関係する神社だ。祭神は伊奢沙別命(いざさわけ)・仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉姫尊・武内宿禰の七神で、境内には式内社「角鹿神社」がある。また『日本書紀』によれば、応神天皇は角鹿の笥飯大神と名前を交換し、大神を去来沙別(いざさわけ)の神とし、応神は誉田別(ほむだわけ)尊としたとある。

 すると、応神の元の名前は去来沙別であり、新羅・加羅系の人であったということになるのだ。さらに、気比神宮寺にある都怒我阿羅斯等の伝承は、頭に角を持つ神が一族と共に角鹿湊へ渡来、角鹿神社の祭神となったとしている。すると、気比神社の祭神である伊奢沙別命は、任那の王子・都怒我阿羅斯等(新羅の王子・天日槍?)であり、応神天皇もこの一族を神として崇めていたことになるのである。

 若狭地方の白木も元々新羅と書いていたが、中世になり白木と書かれるようになったそうで、新羅・加耶系氏族が広く分布していた。また、新羅のことを白城として白の色をあてたのは、新羅が西方の国で五行思想では西方が白色であることによる。この地にある白城神社(祭神・白木明神=鵜茅葺不合尊)は、神武天皇と新羅(加耶)国と関わりを感じさせるが、新羅・加耶系の人達が日本海を渡ってこの白木の浜に上陸して住んだことを物語っている。

 さらに沓見には信露貴彦神社があり、この神社の宮司・龍頭家は新羅系の家系であることから、信露貴彦神社は新羅系の神社である証拠とされている。祭神は瓊瓊杵尊と日本武尊で、古代の新羅系渡来人との繋がりが深く、白城神社とも同系の氏族が祀ったものとされる。


スサノヲ(スサノオ)

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